歴史ミステリー,間宮林蔵,探検家,隠密

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間宮林蔵といえば、世界地図にその名が載る稀有な日本人だ。
いわゆる間宮海峡がそれに当るが、多くの人が、
間宮林蔵は、探検家・測量士だととらえていると思う。
実は、幕府の有能な隠密(スパイ)だったコトはあまり知られていない。

林蔵は茨城県筑波郡伊奈町(現・つくばみらい市)に農家の子として生まれた。
生まれた土地の近くで、江戸幕府は関東三大堰の一つ「岡堰」の工事をしており、
作業に加わった林蔵は、地理・算術の才能を見出された。

1799年(寛政11年)、南千島で伊能忠敬に出会い、測量技術を学んだ。
1803年(享和3年)、西蝦夷地を測量。
伊能忠敬は、スケジュールの都合で、北海道(蝦夷)の測量を全部出来ずに、
残りの測量を林蔵が行ったので、
蝦夷以北の地図は、忠敬の測量図と林蔵の測量図を合体させたモノになった

1808年(文化5年)、幕府の命で松田伝十郎に従って、樺太を探索した
林蔵は、アイヌ語をよく知っていたが、
樺太北部にはアイヌ語が通じない「オロッコ」と呼ばれる民族がいるコトを発見。
樺太が大陸と地続きの半島ではなく、島であるコトを確認し伝十郎が帰ると、
林蔵は、鎖国破りは死罪に相当するコトを知りながらも、
海峡を渡って、黒竜江下流を調査した。
これは、ロシア帝国の動向確認と、謎の町「デレン」の探索が主だったので、
実は、幕府の隠密行動の一環だったのかも知れない
「東韃地方紀行」として、ロシアが極東を支配するに及んでないコト、清国人が多いコトなどを記録した。

シーボルトは後に日本地図で間宮林蔵が樺太を島であると確認したと認め、「間宮海峡」と呼ばれるコトになったのは周知だが、
実は、海峡自体は「タタール海峡(韃靼海峡)」として記載し、海峡の最狭部を「マニワノセト(間宮ノ瀬戸か?)」と命名した。
まぁ、コロンブスの新大陸発見と同じで、アイヌ民族は、「樺太が島」ってコトはとっくに知っていたが

間宮林蔵は、樺太探検後、隠密になったと言われてるが、樺太探検自体が、
江戸幕府の対ロシア・対清国への隠密活動だと指摘する専門家も多い。
実際、林蔵は変装の名人で、アイヌ民や乞食などの変装が上手かった。
隠密として、潜入困難とされた薩摩藩へ潜入したり、
石州浜田藩の密貿易を摘発し、検挙(竹島事件)させたりした。

一番の事件は「シーボルト事件」だ。
林蔵の師匠である高橋至時の息子「高橋景保」と、間宮海峡を広めた「シーボルト」との交通の密告である。
これにより、景保は獄死、シーボルトは国外追放となり、
林蔵は、「大師匠の息子を売った幕府の犬」と呼ばれた。
晩年、衰弱し、隠密行動が出来なくなった。梅毒で死んだという説もある。
スパイ映画だったら、絶対、女スパイの仕業だろう。

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